白桜だより

届けたいこと、遺したいこと

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「梅無し」に見る不確実性 

DSC02518.jpg


在ると思い込んでいたものが
在るべき場所になかった時の虚無感といったら。


人生で2度目だろうか。
そこには確かに 『 梅 (種無し) 』 と書かれていたが、
これは 「種無し」 ではなく、 「梅無し」 のまちがいである。

齧り始め。
一口目では出てこない。
いつ出てくるか。
そろそろ出てくるか。
…半分食べたが、出てくるか。
……。

…?

自分を疑った。
梅まるごと一口で飲み込んでしまったのではないか。
…しかしそのような覚えはない。


どうやら、この世の中では、
「梅おにぎりの中に梅が入っているとは限らない」
らしい。

そのようなわけで、すませた朝食に釈然としないものを残し、数時間が過ぎて昼時となる。

そこで私はようやく確信を得る。
この日は、たまたま同じ梅おにぎりをふたつ買っており、
昼にもうひとつの梅おにぎりを食べると、確かに梅が入っていた。

朝食べたあれは、やはり梅無しだったのだ。

なるほど、確かな実あらず、と書いて、不確実。
タネも仕掛けもない。
ぁぁ、だから(種無し)だったのか。


奇妙なこともあるものだ。

…否、むしろ普段、
梅と書かれた包装の中に梅おにぎりが入っており、
昆布と書かれた包装の中に昆布おにぎりが入っていることこそ、
奇跡なのではないか。

「信じる」ということと、「思い込む」ということの違いは何だろうか。
私は、「梅おにぎり」の中に梅が在ると「信じ」て、買ったが、
単に「思い込」んでいただけではないのか。

そうなると、私は自分が生きていると信じているのかもしれないが、
果たして、本当にこれは、生きているんだろうか。
思い込んでいるだけなんじゃないか。


などと次第に、わけのわからないことを考え出す。

が、そんなことを考えてばかりいる時間も無く、一連の流れは、
「今日は妙なおにぎりを食べたものだ」
という一文に集約され、記憶の片隅に押し込められる。


また、
コンビニおにぎりは、工場で作られていると思っていたけれど、
実はひとつひとつ人間の手作りで、私の買ったおにぎりには、
おにぎりをにぎっている人が、梅を入れ忘れちゃったんじゃないか。

だとしたら、なんだか大変に人間的なものを垣間見た気がして、
その工場の人は疲れていたのかな…なんて妄想をめぐらせてみたり。

しかし、後で少し調べて、やはり
コンビニおにぎりは工場の機械で作られているということを知り、
ちょっと味気ないような、無機的なつめたさに突き当たるわけだが、
それはそれで、機械も完璧にはいかないものなのね…と、

なんにせよ、こんなところでもまた
この世界の「不確実性」とやらに直面するのであった。



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